商品コード:05011500038252-0001
税込 400 円
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ショップ名:しすいノいいモノ
千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
小篠塚城のご説明 千葉県佐倉市
小篠塚城は、印旛沼への最大流入河川である鹿島川に面した半島状の台地先端に築かれました。一部、発掘調査が行われていて、古墳時代の住居跡も検出されています。
小篠塚城の築城年代などの詳細は不明ですが、16世紀中頃から末頃と考えられる遺構が良好に残っています。現在は正慧寺(しょうけいじ)とその塔頭安養院が城内に建っています。
平安時代から鎌倉時代の初めには、小篠塚城の周辺は印東氏の領地でした。その後は、千葉氏の領地になり、15世紀前半には平河氏と宍倉氏が知行していたことがわかっています。
享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺。これにより、享徳の乱が起きました。
転戦中に本拠地鎌倉を占拠された成氏は鎌倉に入ることができず、古河城に入り、以後、古河公方と呼ばれるようになりました。享徳の乱の終結後も動乱が続き、文亀2年(1502年)から永正元年(1504年)までの間、成氏の跡を継いで2代古河公方となった政氏とその子である高基が小篠塚城に動座しました。動座した理由は定かではありませんが、その頃、政氏と千葉孝胤(のりたね)は関係が悪化していたともいわれていて、小篠塚城は当時の状況を考える鍵になる重要な城といえます。
御城印デザインのご説明
御城印には小篠塚城に動座した古河公方足利政氏、高基のそれぞれの花押をデザインしました。 あわせて、初代古河公方足利成氏の花押もデザインしましまた。成氏の居城であった古河城が文明3年(1471年)に攻められ占拠された際、成氏が頼ったのは千葉孝胤(のりたね)でした。成氏は小篠塚城には入っていないと考えられていますが、小篠塚城は千葉氏ゆかりの城のため、この地域と古河公方の関係の深さが偲ばれます。
足利氏の家紋「二つ引両」と、古河公方を支援した千葉氏の家紋「月星」を描きました。
さらに御城印には、小篠塚城に動座した古河公方足利政氏、高基父子を描いた絵(正慧寺ご提供)をモチーフにしました。
小篠塚城は、印旛沼への最大流入河川である鹿島川に面した半島状の台地先端に築かれました。一部、発掘調査が行われていて、古墳時代の住居跡も検出されています。
小篠塚城の築城年代などの詳細は不明ですが、16世紀中頃から末頃と考えられる遺構が良好に残っています。現在は正慧寺(しょうけいじ)とその塔頭安養院が城内に建っています。
平安時代から鎌倉時代の初めには、小篠塚城の周辺は印東氏の領地でした。その後は、千葉氏の領地になり、15世紀前半には平河氏と宍倉氏が知行していたことがわかっています。
享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領の上杉憲忠を謀殺。これにより、享徳の乱が起きました。
転戦中に本拠地鎌倉を占拠された成氏は鎌倉に入ることができず、古河城に入り、以後、古河公方と呼ばれるようになりました。享徳の乱の終結後も動乱が続き、文亀2年(1502年)から永正元年(1504年)までの間、成氏の跡を継いで2代古河公方となった政氏とその子である高基が小篠塚城に動座しました。動座した理由は定かではありませんが、その頃、政氏と千葉孝胤(のりたね)は関係が悪化していたともいわれていて、小篠塚城は当時の状況を考える鍵になる重要な城といえます。
御城印デザインのご説明
御城印には小篠塚城に動座した古河公方足利政氏、高基のそれぞれの花押をデザインしました。 あわせて、初代古河公方足利成氏の花押もデザインしましまた。成氏の居城であった古河城が文明3年(1471年)に攻められ占拠された際、成氏が頼ったのは千葉孝胤(のりたね)でした。成氏は小篠塚城には入っていないと考えられていますが、小篠塚城は千葉氏ゆかりの城のため、この地域と古河公方の関係の深さが偲ばれます。
足利氏の家紋「二つ引両」と、古河公方を支援した千葉氏の家紋「月星」を描きました。
さらに御城印には、小篠塚城に動座した古河公方足利政氏、高基父子を描いた絵(正慧寺ご提供)をモチーフにしました。