商品コード:07000111220318-0001
税込 400 円
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ショップ名:しすいノいいモノ
千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
万喜(まんぎ)城のご説明 千葉県いすみ市
万喜城は夷隅川中流域の丘陵を利用して築かれ、城山を取り巻くように蛇行して流れる夷隅川を天然の水堀としています。城郭を築くのに最適な丘陵地に占地し、千葉県内でも有数の規模を誇っています。城内には、堀や切岸、堀切、曲輪などの遺構が良好に残ります。
万喜城は上総土岐氏の居城として有名ですが、土岐氏が入る以前に長南武田氏が居城としていたことが西麓の上行寺の過去帳からわかっています。
南北朝以降、関東管領上杉氏の支配下にあった房総半島に、鎌倉公方が送り込んだのが武田氏や里見氏です。その武田氏の衰退とともに土岐氏が万喜城周辺に進出していったと思われます。土岐氏が上総国に入った経緯は、不明点が多くまだよくわかっていません。
土岐氏は夷隅川沿いにたくさんの支城を築き水運を利用し、勢力を伸ばし、万喜城を拡張整備していったのでしょう。
城下町も形成され、主郭東側の裾野から夷隅川までの間の平坦部が城下の中心にあたります。土岐氏当主の屋敷や家臣の屋敷などが置かれたと考えられていて、「内宿」という地名や船着き場の跡と思われる場所が今も残ります。
当初は里見方だった土岐氏ですが、第二次国府台合戦(1564年)で里見氏が小田原北条氏に負けると、北条氏に属します。そのため、たびたび里見氏や正木氏に攻められました。万喜城の西方、数百mの距離にある権現城は、天正3年(1575年)に小田喜城(現在の大多喜城)の正木憲時が築いた万喜城を攻めるための陣城です。この陣城を含め、万喜城は房総の歴史を語る上でとても貴重な城といえます。
天正18年(1590年)に北条氏が滅びると土岐氏も同じ運命をたどりました。そして、徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が万喜城に入城。その後、忠勝はまもなく大多喜城に移ったため、万喜城は廃城となりました。
御城印デザインのご説明
幸谷城一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。千葉一族の相馬氏が領地としており、幸谷城は相馬氏の居館だとする伝承も残っています。さらに千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが、幸谷城付近には今でも祀られているため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
幸谷城の北東には高まりがあり、物見台と伝わっています。物見台からは北方向に位置する増尾城がよく見え、増尾城側にも幸谷城を臨む位置に櫓台が残っています。そのため、幸谷城と増尾城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、幸谷城と増尾城が築かれた小丘を描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。また、調査で検出された土塁、堀、物見台が分かるよう実測図をモチーフにしました。
周辺の開発が進む中、幸谷城は長年にわたり所有者が守り続け、現在は「幸谷城館跡」として地元の有志によって整備保存されています。
万喜城は夷隅川中流域の丘陵を利用して築かれ、城山を取り巻くように蛇行して流れる夷隅川を天然の水堀としています。城郭を築くのに最適な丘陵地に占地し、千葉県内でも有数の規模を誇っています。城内には、堀や切岸、堀切、曲輪などの遺構が良好に残ります。
万喜城は上総土岐氏の居城として有名ですが、土岐氏が入る以前に長南武田氏が居城としていたことが西麓の上行寺の過去帳からわかっています。
南北朝以降、関東管領上杉氏の支配下にあった房総半島に、鎌倉公方が送り込んだのが武田氏や里見氏です。その武田氏の衰退とともに土岐氏が万喜城周辺に進出していったと思われます。土岐氏が上総国に入った経緯は、不明点が多くまだよくわかっていません。
土岐氏は夷隅川沿いにたくさんの支城を築き水運を利用し、勢力を伸ばし、万喜城を拡張整備していったのでしょう。
城下町も形成され、主郭東側の裾野から夷隅川までの間の平坦部が城下の中心にあたります。土岐氏当主の屋敷や家臣の屋敷などが置かれたと考えられていて、「内宿」という地名や船着き場の跡と思われる場所が今も残ります。
当初は里見方だった土岐氏ですが、第二次国府台合戦(1564年)で里見氏が小田原北条氏に負けると、北条氏に属します。そのため、たびたび里見氏や正木氏に攻められました。万喜城の西方、数百mの距離にある権現城は、天正3年(1575年)に小田喜城(現在の大多喜城)の正木憲時が築いた万喜城を攻めるための陣城です。この陣城を含め、万喜城は房総の歴史を語る上でとても貴重な城といえます。
天正18年(1590年)に北条氏が滅びると土岐氏も同じ運命をたどりました。そして、徳川家康の関東入部に伴い、本多忠勝が万喜城に入城。その後、忠勝はまもなく大多喜城に移ったため、万喜城は廃城となりました。
御城印デザインのご説明
幸谷城一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。千葉一族の相馬氏が領地としており、幸谷城は相馬氏の居館だとする伝承も残っています。さらに千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが、幸谷城付近には今でも祀られているため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
幸谷城の北東には高まりがあり、物見台と伝わっています。物見台からは北方向に位置する増尾城がよく見え、増尾城側にも幸谷城を臨む位置に櫓台が残っています。そのため、幸谷城と増尾城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、幸谷城と増尾城が築かれた小丘を描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。また、調査で検出された土塁、堀、物見台が分かるよう実測図をモチーフにしました。
周辺の開発が進む中、幸谷城は長年にわたり所有者が守り続け、現在は「幸谷城館跡」として地元の有志によって整備保存されています。