商品コード:12001052110428-0001
税込 400 円
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ショップ名:しすいノいいモノ
千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
興津城のご説明 千葉県勝浦市
興津城は別名奥津城ともいい、興津湊から北側の丘陵上に築かれました。標高120mを超え、湊から眺めるとかなり屹立した山城に見えますが、そのまま北側の平地に続く立地となっています。城山の南側には湊に続く道が通り、北側の尾根上には主要街道が通り、興津城はその抑えの役目を担っていたものと考えられます。
鎌倉時代からこの地にゆかりのあった佐久間氏が城を築いたのが始まりとされ、詳細は不明ですが、その後、戦国期になると上総武田氏や正木氏が城として取り立てたとされます。現在は戦国時代の遺構が良好に残ります。
天正8年(1580年)に正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こすと、興津城は里見軍に攻められました。このとき里見軍に攻められた興津城は周辺を攻撃され、わずか城郭部分のみがかろうじて落とされずに残る危機に追い込まれました。妙本寺に残る文書「里見義頼書状」によると、「興津巣城計(おきつすじろばかり)」と書かれていて、その緊迫した状況を生々しく伝えてくれます。
その後の詳細は不明ですが小田喜正木氏が滅ぶと、勝浦正木氏の城として機能したと思われます。
御城印デザインのご説明
丘陵上の南側が主郭とされ、方形の区画となっています。土塁や空堀、櫓台も良好に残っていて晴れた日には興津湊のある大海原を望むことができる興津城の御城印は、縄張図と地形図をモチーフにしました。
主家である里見氏に反旗を翻したことにより、正木氏は家中で分裂。これにより、房総半島の戦国史に多大な影響を及ぼしました。御城印には正木氏の家紋「三つ引両」をデザインしました。
興津城は別名奥津城ともいい、興津湊から北側の丘陵上に築かれました。標高120mを超え、湊から眺めるとかなり屹立した山城に見えますが、そのまま北側の平地に続く立地となっています。城山の南側には湊に続く道が通り、北側の尾根上には主要街道が通り、興津城はその抑えの役目を担っていたものと考えられます。
鎌倉時代からこの地にゆかりのあった佐久間氏が城を築いたのが始まりとされ、詳細は不明ですが、その後、戦国期になると上総武田氏や正木氏が城として取り立てたとされます。現在は戦国時代の遺構が良好に残ります。
天正8年(1580年)に正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こすと、興津城は里見軍に攻められました。このとき里見軍に攻められた興津城は周辺を攻撃され、わずか城郭部分のみがかろうじて落とされずに残る危機に追い込まれました。妙本寺に残る文書「里見義頼書状」によると、「興津巣城計(おきつすじろばかり)」と書かれていて、その緊迫した状況を生々しく伝えてくれます。
その後の詳細は不明ですが小田喜正木氏が滅ぶと、勝浦正木氏の城として機能したと思われます。
御城印デザインのご説明
丘陵上の南側が主郭とされ、方形の区画となっています。土塁や空堀、櫓台も良好に残っていて晴れた日には興津湊のある大海原を望むことができる興津城の御城印は、縄張図と地形図をモチーフにしました。
主家である里見氏に反旗を翻したことにより、正木氏は家中で分裂。これにより、房総半島の戦国史に多大な影響を及ぼしました。御城印には正木氏の家紋「三つ引両」をデザインしました。