商品コード:20211028073220-0001
税込 400 円
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ショップ名:しすいノいいモノ
千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
一宮城のご説明
一宮城は「一宮城址」として、千葉県長生郡一宮町の町指定史跡になっています。築城主、築城時期などは不明ですが、水陸の要衝地にある一宮城は戦国期には何度も戦乱の舞台となり、今に残る禁制などの史料がその歴史を伝えてくれます。
永禄7年(1564年)、里見氏の配下で、一宮城主だった一宮正木氏を北条側についた勝浦正木氏が攻め滅ぼしました。そして、勝浦正木氏が一宮城に入りますが、その後も里見氏と北条氏の争いの中で城主が変わり、そのたびに一宮城は戦火にさらされました。
一宮城は2度の発掘調査が行われており、庭園遺構や大名などの高貴な位に使用が限られる箸置き台「耳かわらけ」が出土しており、一宮城が外房の拠点クラスの城郭であったことが推測できます。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際は、里見氏の家臣鶴見甲斐守が城主だったことが史料に見え、合戦後は関東に移封となった徳川家康家臣の本多忠勝が大多喜城に入りこの地域を統括したため、一宮城は役目を終え、廃城となりました。その後、江戸時代中期に伊勢八田藩の領地となり、文政9年(1826年)には江戸湾警備の面から八田藩が陣屋を築き、一宮藩として明治の世を迎えることとなります。
御城印デザインのご説明
上総国一宮玉前神社は一宮城下に鎮座しており、その玉前神社の祭神「玉依姫」が上陸したと伝わる釣ケ崎海岸の鳥居を御城印にデザインしました。一宮城にとって、いつの時代も玉前神社が聖地として存在していたと推測でき、その祭神である「玉依姫」が上陸した釣ケ崎海岸もまた聖地といえます。
そして、平安時代から上総国を治めた名族上総氏と、戦国時代の城主正木氏、そして里見氏の家紋を配置しました。
一宮エリアは平安時代から鎌倉時代にかけては名族上総氏の領地であり、上総広常が源頼朝と源氏の繁栄を祈り、鎧を奉納したと伝わるのがここ玉前神社なのです。広常奉納の鎧は現存していませんが、この故事に倣い、一宮藩主加納久徴(ひさあきら)は玉前神社に鎧を寄進しました。その鎧が現在、町指定文化財になっており、これを御城印にデザインしています。
一宮城は「一宮城址」として、千葉県長生郡一宮町の町指定史跡になっています。築城主、築城時期などは不明ですが、水陸の要衝地にある一宮城は戦国期には何度も戦乱の舞台となり、今に残る禁制などの史料がその歴史を伝えてくれます。
永禄7年(1564年)、里見氏の配下で、一宮城主だった一宮正木氏を北条側についた勝浦正木氏が攻め滅ぼしました。そして、勝浦正木氏が一宮城に入りますが、その後も里見氏と北条氏の争いの中で城主が変わり、そのたびに一宮城は戦火にさらされました。
一宮城は2度の発掘調査が行われており、庭園遺構や大名などの高貴な位に使用が限られる箸置き台「耳かわらけ」が出土しており、一宮城が外房の拠点クラスの城郭であったことが推測できます。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際は、里見氏の家臣鶴見甲斐守が城主だったことが史料に見え、合戦後は関東に移封となった徳川家康家臣の本多忠勝が大多喜城に入りこの地域を統括したため、一宮城は役目を終え、廃城となりました。その後、江戸時代中期に伊勢八田藩の領地となり、文政9年(1826年)には江戸湾警備の面から八田藩が陣屋を築き、一宮藩として明治の世を迎えることとなります。
御城印デザインのご説明
上総国一宮玉前神社は一宮城下に鎮座しており、その玉前神社の祭神「玉依姫」が上陸したと伝わる釣ケ崎海岸の鳥居を御城印にデザインしました。一宮城にとって、いつの時代も玉前神社が聖地として存在していたと推測でき、その祭神である「玉依姫」が上陸した釣ケ崎海岸もまた聖地といえます。
そして、平安時代から上総国を治めた名族上総氏と、戦国時代の城主正木氏、そして里見氏の家紋を配置しました。
一宮エリアは平安時代から鎌倉時代にかけては名族上総氏の領地であり、上総広常が源頼朝と源氏の繁栄を祈り、鎧を奉納したと伝わるのがここ玉前神社なのです。広常奉納の鎧は現存していませんが、この故事に倣い、一宮藩主加納久徴(ひさあきら)は玉前神社に鎧を寄進しました。その鎧が現在、町指定文化財になっており、これを御城印にデザインしています。