商品コード:22801090120113-0001
税込 400 円
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ショップ名:しすいノいいモノ
千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
増尾城のご説明 千葉県柏市
増尾城は増尾集落から北東に突き出した半島状の台地の上に築かれました。南側崖下には手賀沼に流れ込む大津川の支流が流れ、城山のまわりは谷と険しい崖に囲まれ、天然の要害となっています。
築城時期や築城主は不明ですが、土塁や空堀からなる塁壁に複数の横矢が掛けられていることなどから戦国期の城とみられています。増尾城が小金領にあることからも、16世紀に築かれた小金城と関連する城と推測されており、東葛飾郡誌には小金城主高城氏の家臣平川若狭守が城主だったと書かれています。
周辺には大津川に沿って、幸谷城、戸張城、佐津間城などの中世城館が築かれていて、これらの城とともに手賀沼へと続く水上交通の要衝だったことが想像できます。近世に遡ることができる街道も城下で交差しており、陸上交通の要衝であったこともうかがえます。
御城印デザインのご説明
遺構が良好に残り、南西隅に大きな櫓台が残る増尾城の縄張図をモチーフにしました。増尾城には虎口を見張る櫓があったと推測できますが、櫓台からは南方向に位置する幸谷城がよく見え、幸谷城にも増尾城を臨む位置に物見台が残っています。そこで、増尾城と幸谷城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、両城が築かれた小丘も御城印に描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。
増尾城眼下を流れる河川は郡の境にあたります。増尾城の南側一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。相馬御厨は千葉一族の相馬氏が領地としており、増尾城付近には今でも千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが祀られているため、御城印には一族の家紋「九曜」を配置しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
増尾城は現在、「増尾城址公園」として整備されています。
増尾城は増尾集落から北東に突き出した半島状の台地の上に築かれました。南側崖下には手賀沼に流れ込む大津川の支流が流れ、城山のまわりは谷と険しい崖に囲まれ、天然の要害となっています。
築城時期や築城主は不明ですが、土塁や空堀からなる塁壁に複数の横矢が掛けられていることなどから戦国期の城とみられています。増尾城が小金領にあることからも、16世紀に築かれた小金城と関連する城と推測されており、東葛飾郡誌には小金城主高城氏の家臣平川若狭守が城主だったと書かれています。
周辺には大津川に沿って、幸谷城、戸張城、佐津間城などの中世城館が築かれていて、これらの城とともに手賀沼へと続く水上交通の要衝だったことが想像できます。近世に遡ることができる街道も城下で交差しており、陸上交通の要衝であったこともうかがえます。
御城印デザインのご説明
遺構が良好に残り、南西隅に大きな櫓台が残る増尾城の縄張図をモチーフにしました。増尾城には虎口を見張る櫓があったと推測できますが、櫓台からは南方向に位置する幸谷城がよく見え、幸谷城にも増尾城を臨む位置に物見台が残っています。そこで、増尾城と幸谷城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、両城が築かれた小丘も御城印に描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。
増尾城眼下を流れる河川は郡の境にあたります。増尾城の南側一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。相馬御厨は千葉一族の相馬氏が領地としており、増尾城付近には今でも千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが祀られているため、御城印には一族の家紋「九曜」を配置しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
増尾城は現在、「増尾城址公園」として整備されています。