商品コード:31200001020548-0001
税込 400 円
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ショップ名:しすいノいいモノ
千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
小浜(こばま)城のご説明 千葉県いすみ市
小浜城は太平洋に向かって突き出した八幡岬に築かれました。現在、小浜八幡神社が鎮座している平場から海に向かって曲輪が連なり、その先端が主郭だったと考えられます。
城山は海を臨む断崖絶壁の要害になっていて、小さいながらも重要な海上の拠点として機能していたと考えられます。麓には湊もあり、西南の湾は軍船の船繋ぎ場と思われ、水軍拠点としての小浜城の姿が浮かび上がってきます。
小浜城の城下にかつての夷隅川の河口があったといい、水運の要である夷隅川を押さえ、万喜城、小田喜城(現在の大多喜城)と繋がるまさに水路の玄関口といえます。
小浜城の詳細は不明ですが、万喜城の支城と思われ、土岐氏の家臣鑓田美濃守勝定が築いたとも伝わります。鑓田氏が合戦に赴いて城を留守にしている間に、城は正木氏に奪われ、またそれを鑓田氏が取り返したとの伝承も残ります。詳細は不明ながらも、この小浜城を取り合う勢力がいて、奪い合いをする価値のある城だったということがわかる逸話といえます。
天正18年(1590年)に徳川家康の関東入部に伴い、上総国に入った本多忠勝に小浜城も接収され、廃城になりました。
御城印デザインのご説明
幸谷城一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。千葉一族の相馬氏が領地としており、幸谷城は相馬氏の居館だとする伝承も残っています。さらに千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが、幸谷城付近には今でも祀られているため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
幸谷城の北東には高まりがあり、物見台と伝わっています。物見台からは北方向に位置する増尾城がよく見え、増尾城側にも幸谷城を臨む位置に櫓台が残っています。そのため、幸谷城と増尾城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、幸谷城と増尾城が築かれた小丘を描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。また、調査で検出された土塁、堀、物見台が分かるよう実測図をモチーフにしました。
小浜城は太平洋に向かって突き出した八幡岬に築かれました。現在、小浜八幡神社が鎮座している平場から海に向かって曲輪が連なり、その先端が主郭だったと考えられます。
城山は海を臨む断崖絶壁の要害になっていて、小さいながらも重要な海上の拠点として機能していたと考えられます。麓には湊もあり、西南の湾は軍船の船繋ぎ場と思われ、水軍拠点としての小浜城の姿が浮かび上がってきます。
小浜城の城下にかつての夷隅川の河口があったといい、水運の要である夷隅川を押さえ、万喜城、小田喜城(現在の大多喜城)と繋がるまさに水路の玄関口といえます。
小浜城の詳細は不明ですが、万喜城の支城と思われ、土岐氏の家臣鑓田美濃守勝定が築いたとも伝わります。鑓田氏が合戦に赴いて城を留守にしている間に、城は正木氏に奪われ、またそれを鑓田氏が取り返したとの伝承も残ります。詳細は不明ながらも、この小浜城を取り合う勢力がいて、奪い合いをする価値のある城だったということがわかる逸話といえます。
天正18年(1590年)に徳川家康の関東入部に伴い、上総国に入った本多忠勝に小浜城も接収され、廃城になりました。
御城印デザインのご説明
幸谷城一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。千葉一族の相馬氏が領地としており、幸谷城は相馬氏の居館だとする伝承も残っています。さらに千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが、幸谷城付近には今でも祀られているため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
幸谷城の北東には高まりがあり、物見台と伝わっています。物見台からは北方向に位置する増尾城がよく見え、増尾城側にも幸谷城を臨む位置に櫓台が残っています。そのため、幸谷城と増尾城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、幸谷城と増尾城が築かれた小丘を描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。また、調査で検出された土塁、堀、物見台が分かるよう実測図をモチーフにしました。