商品コード:45200422028109-0001
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ショップ名:しすいノいいモノ
千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
網戸城のご説明 千葉県旭市
網戸城は九十九里平野の微高地に築かれました。 この地は、北方に棒の海、 南方は太平洋という水上交通の発達した地域です。
現在の東漸寺周辺一帯が網戸城の城域とされていて、主郭は東漸寺の西方、 の集落が形成され、そこから城内へ続く道はクランクしていることからも、防衛線 として機能していたことが推察できます。 網戸城の規模や構造などは明らかになっ ていないものの、 東漸寺には空堀や土塁などが残っています。 網戸城の築城主や築城年代などは不明ですが、応永年間(1394年-1418年) 頃「字「城之内」 付近と考えられています。 主郭と思われる箇所の南方には、 「上宿」の築城とも、 小田原北条氏の家臣大橋山城守康忠によって築かれたとも伝わります。 天正18年 (1590年)の小田原の役の後、徳川家康の関東移封に伴い、木曽 義昌が下総国阿知戸一万石に入りました。 義昌は、近隣の福昌寺を仮陣とし 翌年に網戸城を改修整備し、居城としたとされています。 義昌の死後、嫡男の 義利が跡を継ぎましたが、慶長5年(1600年) に義利が叔父を殺害。 それにより、 家から追放され、廃藩、廃城となりその封地は幕府の直轄地となりました。
御城印デザインのご説明
木曽義昌は、信濃国木曽谷の領主木曽氏の第 19代当主でした。 弘治元 年(1555年)に武田信玄に降って、その娘を妻としました。その後、織田氏、 豊臣氏に属しますが、 小田原の役の際に、自身の病気を理由に嫡男義利を出 陣させたことから疑惑を持たれ、 阿知戸に転封されたといわれています。 阿知戸において、善政を行い、城下の繁栄に心を砕いた義昌は、文禄4年(1595年)に没し遺言により、その遺体は椿の海に水葬されました。 義昌は、木曽義仲 (源義仲) の後裔と伝わっています。 義仲は清和源氏 源為義の孫にあたり、源頼朝の挙兵に呼応し、 打倒平家の兵を挙げました。 義仲は上洛の際、 倶利伽羅峠の戦いで平家方に大勝し破竹の勢いで進軍し たことから、 朝日の昇る勢いになぞらえて、 「朝日将軍」と称せられました。 江戸時代に、国学者の野々口隆正が木曽義昌の旧跡を訪れた際、義仲と その後裔である義昌を懐古して、「信濃より いづる旭をしたひ 来て東のくににとどめけむ」と詠んだといい、この和歌が旭 市の由来となっているといいます。御城印には、市名の元になった「朝日」 をモチーフにすると ともに、木曽義仲の銅像をモチーフにしましたさらに、義昌の 「肖像画、兜伝木曽義昌兜・東漸寺蔵) をデザインしました。
網戸城は九十九里平野の微高地に築かれました。 この地は、北方に棒の海、 南方は太平洋という水上交通の発達した地域です。
現在の東漸寺周辺一帯が網戸城の城域とされていて、主郭は東漸寺の西方、 の集落が形成され、そこから城内へ続く道はクランクしていることからも、防衛線 として機能していたことが推察できます。 網戸城の規模や構造などは明らかになっ ていないものの、 東漸寺には空堀や土塁などが残っています。 網戸城の築城主や築城年代などは不明ですが、応永年間(1394年-1418年) 頃「字「城之内」 付近と考えられています。 主郭と思われる箇所の南方には、 「上宿」の築城とも、 小田原北条氏の家臣大橋山城守康忠によって築かれたとも伝わります。 天正18年 (1590年)の小田原の役の後、徳川家康の関東移封に伴い、木曽 義昌が下総国阿知戸一万石に入りました。 義昌は、近隣の福昌寺を仮陣とし 翌年に網戸城を改修整備し、居城としたとされています。 義昌の死後、嫡男の 義利が跡を継ぎましたが、慶長5年(1600年) に義利が叔父を殺害。 それにより、 家から追放され、廃藩、廃城となりその封地は幕府の直轄地となりました。
御城印デザインのご説明
木曽義昌は、信濃国木曽谷の領主木曽氏の第 19代当主でした。 弘治元 年(1555年)に武田信玄に降って、その娘を妻としました。その後、織田氏、 豊臣氏に属しますが、 小田原の役の際に、自身の病気を理由に嫡男義利を出 陣させたことから疑惑を持たれ、 阿知戸に転封されたといわれています。 阿知戸において、善政を行い、城下の繁栄に心を砕いた義昌は、文禄4年(1595年)に没し遺言により、その遺体は椿の海に水葬されました。 義昌は、木曽義仲 (源義仲) の後裔と伝わっています。 義仲は清和源氏 源為義の孫にあたり、源頼朝の挙兵に呼応し、 打倒平家の兵を挙げました。 義仲は上洛の際、 倶利伽羅峠の戦いで平家方に大勝し破竹の勢いで進軍し たことから、 朝日の昇る勢いになぞらえて、 「朝日将軍」と称せられました。 江戸時代に、国学者の野々口隆正が木曽義昌の旧跡を訪れた際、義仲と その後裔である義昌を懐古して、「信濃より いづる旭をしたひ 来て東のくににとどめけむ」と詠んだといい、この和歌が旭 市の由来となっているといいます。御城印には、市名の元になった「朝日」 をモチーフにすると ともに、木曽義仲の銅像をモチーフにしましたさらに、義昌の 「肖像画、兜伝木曽義昌兜・東漸寺蔵) をデザインしました。