千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
森山城は中世には「香取の海」と呼ばれた広大な内海に面する台地の上に位置します。標高50mほどで、西側と南側は低湿地の水田となっている天然の要害を利用して築かれた戦国時代の城郭です。
このあたりの地域は、鎌倉時代から千葉一族「東(とう)氏」の本拠地で、森山城の東側に隣接している須賀山城(東庄町)は東氏が築いた城と伝わります。
東氏が美濃国(現在の岐阜県郡上八幡市)に移ると、この地は東氏の庶流である海上(うなかみ)氏の統治となりました。千葉宗家当主昌胤の子の胤富は、当初、海上氏の養子に入り森山城の城主となりました。しかし、兄の親胤が家臣に殺されると、本家に戻って当主の座を継ぎ、本佐倉城(酒々井町)に移りました。胤富は本佐倉城に行った後も、常陸国との境に当たり、千葉氏領国の北境の城である森山城を重要視し、一族の有力者を森山城の城主に据え拡張整備しました。
千葉氏は小田原北条氏に属しており、豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原攻めの際には、当主重胤が小田原城で戦うも落城。それにより、森山城も戦国時代の城としての役目を終えたと思われます。
御城印デザインのご説明
千葉宗家当主胤富が当主の座につくまでの居城とし、その後も当城の重要性を感じ拡張整備しながら重要拠点とした森山城の御城印には、千葉氏の家紋「月星」を配置しました。
森山城の当時の様子を伝える貴重な「原文書」とよばれる史料があります。これは、福井藩士であった原氏に伝わった文書です。原氏は千葉氏の一族であり、さらにその分家が森山城主として城を任されていました。その原氏に伝わる文書が「原文書」です。内容は領内の統治に関わる指示が中心で、軍事、徴税、儀礼など多岐にわたっています。その貴重な文書に書かれた胤富の花押と、胤富のものと思われる鶴の黒印をモチーフにしました。
そして、物資の流通まで管理できるほど水運掌握のための重要拠点であり、後に小田原北条氏の支城として拡張整備された森山城の縄張図をデザインしました。現地には、土塁や空堀、馬出などの遺構が良好に残っています。