千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
幸谷城は「きつね山」と呼ばれる小丘に築かれ、城山の東側と南側には谷津がめぐっています。今も近くまで川が入り込んでいて、城が使われていた当時も手賀沼に流れる河川を利用して機能していたことが推測できます。
千葉一族相馬氏の居館ともいわれていましたが、近年は調査による出土物などにより、15世紀後半に築かれ16世紀まで使われていた可能性が指摘されています。食い違い虎口や複数に折れる土塁や堀から、増尾城と同じように小金城主高城氏に関連する城と想定できます。
本土寺過去帳には、文明17年(1485年)の「コウ城」での戦闘行為による討ち死者の記録があり、「コウ城」が幸谷城を指している可能性があることからも、幸谷城の北方に位置する増尾城との関連が推測でき、同時に機能していた両城の姿が浮かび上がります。
御城印デザインのご説明
幸谷城一帯は鎌倉時代から南北朝時代には相馬御厨という伊勢神宮の荘園でした。千葉一族の相馬氏が領地としており、幸谷城は相馬氏の居館だとする伝承も残っています。さらに千葉氏系の氏族がいたと想像できる一族の信仰のシンボルである妙見さまが、幸谷城付近には今でも祀られているため、御城印には千葉一族の家紋「九曜」を配置しました。さらに相馬氏ゆかりの地であることから相馬氏の家紋「繋ぎ馬」をデザインしました。
幸谷城の北東には高まりがあり、物見台と伝わっています。物見台からは北方向に位置する増尾城がよく見え、増尾城側にも幸谷城を臨む位置に櫓台が残っています。そのため、幸谷城と増尾城の御城印には同じ櫓をデザインするとともに、幸谷城と増尾城が築かれた小丘を描き、お互いに連携していた両城をイメージしました。また、調査で検出された土塁、堀、物見台が分かるよう実測図をモチーフにしました。
周辺の開発が進む中、幸谷城は長年にわたり所有者が守り続け、現在は「幸谷城館跡」として地元の有志によって整備保存されています。