千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
花輪城は江戸川に沿って南に突き出る台地先端に位置します。この台地の周辺は古くは低湿地帯だったと思われ、花輪城は水運の大動脈である旧利根川水系の太日川(現江戸川)と低湿地帯を臨む好立地に位置していたといえます。現在は主要地方道松戸野田線が城域を縦断していて、遺構の大部分は破壊されてしまっていますが、花輪城址公園として先端部が整備されており、空堀、土橋、土塁などの遺構を今でも確認できます。
発掘調査によると、深さ3mの空堀と土橋が見つかっており、土橋によって城内の曲輪を繋いでいたと思われ、少なくとも二つ以上の曲輪が連続する連郭式城郭であったことが分かっています。さらに空堀は小規模ながら障子堀になっていたことが確認されており、城郭として利用されていた頃の姿が発掘調査により浮かんできます。
花輪城は築城年代などは不明ですが、戦国期には根木内城や小金城を本拠とする高城氏の支城として使われたと思われ、高城氏に関係する田島氏や平本氏の名が伝わりますが詳細は定かではありません。高城氏が属した北条氏が滅びると花輪城は役目を終えたと考えられます。
御城印デザインのご説明
花輪城廃城後、江戸時代になると主郭には西福寺が建てられました。西福寺には琵琶首観音堂と呼ばれるお堂があり、その観音堂の基壇跡が発掘調査により検出されています。観音堂は江戸時代のものですが、そこに安置されていた観音菩薩立像は墨書きにより、天文8年(1539年)の造立であることが分かっています。
さらに発掘調査の際に、空堀から19基の板碑が出土しました。これらの板碑と仏像の由来は不明ですが、花輪城の性質や役割を考える上での重要な遺物と思われるため、御城印には観音堂の基壇が描かれている花輪城構造図と出土した板碑をデザインしました。