千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
小見川陣屋は現在の小見川中央小学校の地に築かれた小見川藩の陣屋です。南北175m、東西150mほどの規模で、その敷地は黒部川河畔まで広がっていました。
徳川家康が関東に入ると、家康の家臣松平家忠が小見川に入封しましたが、家忠は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死しました。その後、土井利勝、安藤重信らが入るも、安藤氏の移封を受けて廃藩となりました。
寛永16年(1639年)に内田正信が下総国、常陸国で加増され大名になり、小見川藩主となりました。正信の死後、元禄元年(1688年)に小見川陣屋が置かれました。当初、内田氏の居所は下野国鹿沼でしたが、享保9年(1724年)に小見川に移り、小見川藩が再立藩され、以後明治まで内田氏は一万石の大名として存続しました。
小見川は香取の海に直結する水運の要衝のため、すでに鎌倉時代には千葉一族である粟飯原氏が領地としていたとも伝わっています。戦国時代になると、粟飯原氏が小見川城(現小見川城山公園)を築きますが、対抗勢力であった里見方の正木氏が下総国に侵出し、小見川城を攻撃。その際、正木方が小見川城攻めの陣城である橋向城を築いたのが後の小見川陣屋の地にあたります。
御城印デザインのご説明
小見川藩1万石の譜代大名内田氏は、遠江国内田郷に起源を持ち、今川氏、徳川氏に仕えました。慶安4年(1651年)、徳川家光の病死に際し、当時の当主正信は殉死を遂げました。その後を継いだ正衆(まさもろ)以降も、用水堰の整備などに尽力し、小見川を発展に導きました。御城印には内田氏の家紋「内田久留子(くるす)」を配置しました。
古くから水運の要衝だった小見川は、江戸時代には利根川舟運の河港として栄えました。陣屋にも黒部川から水路を引き込み、船着き場が設けられていました。このような陣屋は全国的にも珍しく、小見川陣屋の特徴といえます。御城印は繁栄を偲ばせる当時の陣屋の絵図をモチーフにし、小見川中央小学校の校舎の上に飾られていた鯱(しゃちほこ)をデザインしました。これは、江戸時代のものと推定されていて、明治16年に建設された第一校舎棟上に飾られていたものです。その校舎の解体にあたり屋根から下ろされ保管されています。