千葉県はたくさんの城跡があり、歴史の宝庫です。千葉氏、里見氏に代表されるような、面白くドラマチックな歴史が満載です。「御城印」が地域の歴史や城を知り、大事に思うきっかけになれば嬉しいです。
これからもカッコよく素敵なデザインの御城印が続々と発行されますのでお楽しみに!
見広城はかつての椿の海を臨む要害山と呼ばれる段丘上に築かれました。棒の北東に位置し、半島状の 台地となっています。 椿の海は江戸時代に鉄牛和尚が干拓し、干潟八万石と呼ばれる広大な水田地帯となりました。
築城主、築城年代などの詳細は不明ですが、今に残る遺構は15世紀以降のものと考えられています。 櫓台、空堀、 土塁が良好に残り、堀添、桝形, 矢通、 新堀込、井堀など城と関連する地名も残っています。
地元の伝承や、「海上郡誌」 などによると、城主は嶋田三河守を名乗った一族とされ、周辺には「嶋田」姓が 多く残ります。 嶋田氏は千葉氏に属していたと考えられ、見広城の東8kmほどの距離に千葉氏の一族である海上 氏の本城 「中島城 (海上城成(溝上城)」、見広城の北8kmほどの距離に千葉氏の一族東氏の城 「沼闕城」があることからも海上氏と東氏との関係も推察できます。 それぞれが連携して、機能していたと思われます。 見広城の落城については諸説ありますが、永禄年間の正木時忠による下総侵攻の際に、落城したと考えられています。 永禄3年(1560年) から永禄9年(1566年) にかけて正木軍が下総に侵攻し、 各地で合戦がおきました。 その際に、見広城は中島城などとともに攻められ落城したという記録が残ります。 旭市野中の長禅寺本尊愛染明王 坐像の胎内墨書銘によると、永禄8年(1565年)、長禅寺付近一帯で激しい戦闘があり、 寺は猛火で全焼したと 記されていて、この地域で戦闘行為があったことがわかります。
正木氏の下総侵攻についても諸説あり、 見広城が永禄年間以外にも正木氏の侵攻に際し、 戦闘行為に及び、落城した可能性も指摘されています。 見広城の南麓には 「川岸田」 という地名も残り、 このあたりが「港津」 であった可能性もあり、見広城が水運の 掌握を担う側面もあったと指摘されています。
御城印デザインのご説明
広城に隣接するように雷神社が鎮座しています。 雷神社の地は小字が「東海道」 で、そのことからもこの地 が交通の要衝だったことが推察できます。 雷神社の創建は不明ですが、延喜式にその名が見え、奈良時代にはすでに存在していたと思われます。 また、景行天皇が皇子であるヤマトタケルの追慕のために東国に下向し椿の海を見下ろすこの地に立ち、 一社を創建したとの伝説も残ります。この伝説からも、この地が古代からの水上交通の要衝であった姿が垣間見 えます。 御城印には地形のわかる地図をモチーフにし城主と伝わる嶋田三河守の家紋「丸に三割り桜」 と、主 筋にあたる千葉一族の家紋「九曜」をデザインしました。