十五種の穀類をミックス
内容:発芽玄米、緑米、紫米、赤米、胚芽押麦、押麦、まる麦、はと麦、発芽赤米、焼玄米、アワ、キビ、ヒエ、アマランサス、麻の実
古代から現代まで変わることのないものはさまざまにあるが、おそらく有明海から佐賀の地へとふきよせてくる風は、そのかわらぬもののひとつであるにちがいない。
ただし、風にそよぐ赤米の穂や川原の葦を刈るものが、吉野ケ里に生きた弥生のひとびとから、ひとりの風変わりな男に変わっている。
体の異変に気付いたとき
その風変わりな男だが佐賀県江北町に代々農業を営んできた武冨家の分家に生まれた。 が、家業などまるで継ぐ気はなかった。教師にでもなるかと思い、普通高校の生物の教師になった。名を勝彦と言う。勝彦さんは柔道をつづけてきていたせいか、五指がごつい。その指で、よく食い、良く飲んだ。だからだろう、170cmに満たない体ながら、かつては84kgもあっというからあきらかな肥満体だったといっていい。
勝彦さんはすこしばかり「気」が多い。あるとき「庭師になろう」とおもいつくや、すぐさま全国的に知られている造園家のもとへ押しかけ、教えを乞い、同時にアメニティーやランドスケープの専門書を片っ端から読みあさり、やがては農業高校の造園科で教鞭をとるまでに至ってしまった。 が、あるとき構内のU字溝に足を取られ、足首の近くを折った。重い体を松葉杖で支える生活になったが、骨折は治ったものの不整脈が出、加えて咳が止まらないようになってしまった。結核ではないかと検査を続けたが肝心の菌が見つからず咳はいつまでも止まらない。
・・・このままじゃ俺は死ぬばい
と、つきあげるようにおもった。なにが悪いのかと考えていた時、たまさか世話になった整形外科医に、ミネラルやビタミンの豊富な玄米食がいいと教えられた。身体の根本をなおさない限り、咳もとれない・・・と、勝彦さんは行動が早い。ジャンクフードやジュースの類を一切断ち、有機嚢胞による玄米と野菜を中心とした食生活をしはじめた。生活を改善するや、見る間に体質が変わった。風船のようだった頬やあごから脂肪が消え、体重も10kg減った。
・・こいは凄かねぇ〜と、実感した。だけでなく
・・・専業の農家になるったい。と決め、にわかに退職した。
40歳を過ぎていた。だが、勝彦さんの家は分家である。土地が狭い。ちょうど千葉でアジア型循環農法という一風変わった農業をはじめるという情報が入った。そこへ行こう・・・と決めた。だが、行ってすぐに頓挫した。そればかりか、退職金のあらかたを使い果たしてしまっていた。知人が熊本で十町歩の土地を購入したという。そん開拓、手つどうちゃるけん・・と、今度は熊本へ飛んだ。だが、そこも頓挫した。
・・・・江北に帰ろう。
尾羽打ち枯らした。食生活の改善によって体力だけは漲っていたが、あとはすべて無くなっていた。ただ、運にだけは見放されなかった。教職時代の先輩から仕事を紹介された。精神病院で農園芸を教えてくれないかと言う。
・・・どういうこっちゃ
首をひねった。精神免疫学という新しい学問分野がある。分裂病やうつ病にとどまらず、登校拒否や自閉症などの患者のこころを癒すために、植物のちから、さらには音楽や絵画を用いる試みで、それを園芸療法とか農園療法とか芸術療法とか言うらしい。
・・・それをしてくれんか
というのだった。農業だろうが、庭作りだろうが、どちらも勝彦さんにとっては専門分野といっていい。快諾した。すると心を病んだ患者たちへの効果はてきめんにみられた。
・・・・おいどんのしとるこつは無駄でんなか
そう、勝彦さんは思った。しかし、いつまでも精神病院でおしえていては専業農家にはなれない。自分にしかできないことはないか。どうしようもなく興味をおぼえるものはないか・・。とんな思いに取り付かれていたとき、親せきから電話が入った。吉野ケ里に梅林があるのだが、遺跡の発掘で梅を切らなければならなくなった。もったいないからもらってくれないか、という。勝彦さんは軽トラで出かけた。梅を30本ほど掘り出した際、赤茶けた土に瞳が吸い込まれた。
赤米の王国から受け継がれたDNA
・・・こん土は、なんかあるばい
土をいじってきたものの直感と言うべきか、言葉ではいいあらわせない感じがした。ほどなく、そこから王の墳墓が見つかったと報道された。なんとま・・・と、勝彦さんは驚いた。吉野ケ里まで急げば、王の墳墓ばかりか、その周辺からも甕棺墓がつぎつぎに発掘されていた。
・・・凄かばい
感嘆し、同時に「弥生時代のひとたちは、どんな農業を営んどったんかねぇ〜」と自問した。どうやって稲を作っていたのだろう・・・と。そのときのこと。視界の端に川の流れが見えた。川原には葦が群生している。弥生人は葦と共に生活してきた。葦で屋根を葺き、堆肥にもした。葦がないと、雨露をしのぐこともできなければ、作物を十分に実らせることもできなかった。弥生人が作っていたのは米の原種にちかく背の高い赤米だった。吉野ケ里は赤米の王国だった。
・・・これだ
と勝彦さんは叫んだ。
江北町にも大量の葦がある。有明海にそそぐ六角川の葦である。また葦の茎の空洞部分に居る微生物が海へ流れ込み湾を浄化している。自然は循環して互いを守り、互いを成長させている。おいどんもそうしてみよう、とおもいついた。
葦を刈り、天日に干したものへコメヌカをかけて水を打てばやがて発酵する。堆肥になる。それで作物を育てればいい。地域の大地から生まれたものを堆肥にすれば、立派に循環するんじゃなかか・・・と。
・・・葦を利用して赤米ば作ろう。
赤米だけではない。黒米も緑米も、古代米の形質を色濃く伝えている有色米を作ろう。そう、決めた。自分の中にかぼそく伝えられている吉野ケ里の人々の遺伝子が、おおいに騒ぎ始めていた。勝彦さんは行動を開始した。だが、障壁も多かった。近所からはなんで、黒かごたる米が作るとの?だの葦の汁でうちの鯉が死んだだのいって揶揄された。
あるときなど、田の土を見たとき「・・・なぁんか、おかしいねぇ」という疑念が湧いた。そこで物陰から窺ってみれば、父親が化学肥料を内緒で撒いているのを目撃してしまった。なんばしよっと・・・と、大慌てで父親を停めた。だが、遅い。土は死んでいた。生れて初めて涙が出た。自分のしていることを親までも理解してくれない口惜しさの涙だった。だが、勝彦さんは黙々と農作業をやりなおした。
赤く輝く稲穂の中で
やがて有色米は、みごとな穂を実らせた。
・・・・赤かねぇ〜
ほれぼれするような赤い穂だった。まるで夕日をみずからの内側に誘い込んでしまったかのような稲穂が、視界いっぱいに広がり渡っている。途端に目頭が熱くなった。吉野ケ里のひとびとも、こんな美し田をまのあたりにしていたのだろうか。そう思ったとき、まぼろしを見た。田の畔で、豊作の舞を踊る女性がいた。純白の衣をまとった弥生人だった。
・・・・王国の甦る瞬間じゃなかね
思わず嬉し涙がこぼれた
。以来、勝彦さんは有色米作りに励んだ。同時に自律神経を失調させて登校拒否になったり自宅へひきこまったりしてしまった若者や壮年のひとびとを自宅へ住まわせ、庭作りや農業をともにした。ときには吉野ケ里の住居の屋根組みにも似た葦葺きの屋根を作ったりもした。
・・・見てみい
勝彦さんはかれらを田まで連れて行っては米を見せた。神経を疲れはてさせたもたちは皆、稲の成長を見守っているうちにこころを開いた。芽を出した草や花に光がさしこみ、それがすぅっと伸びてゆくのを目の当たりにしたとき、かれらは心の闇から次第に解放されていった。
人間になるためのきっかけになるけん。毎日のように勝彦さんは、そう、声をかけたという。勝彦さんにとっては、うつ病の人も稲もおなじものだったのだろう。どちらも一生懸命に育ててあげればいい。古代米は原種に近いため、ともすれば風にあおられて倒れてしまう。そうさせないためには徹底的に土を肥やして、いたわり続けてやるしかない。勝彦さんは、そうした。
思いがけないスローフード大賞
そんな或る日、葦を刈り続けていた勝彦さんの携帯電話が鳴った。なんね・・・と思って電話に出れば、農林水産省の統計局からだった。勝彦さんの農業方法を情報としてネット配信したいのだという。
・・・・やぐらしかっ
面倒だ、と勝彦さんは叫んだ。だが「なんか、ようわからんが」協力することにし、赤米や黒米を送ったりした。すると、どうだろう。おもってもみないことに勝彦さんの農作業のレポートが回りまわって、世界的に認められるところとなり、賞まで授与されることになった。
イタリアのトリノを本拠地とするNPO法人による「スローフード大賞」だった。限られた地域に拘わりつづける小さな生産農家が、消えてしまいそうな食材や大きな流れに飲み込まれてしまいそうな作物に目をむけ、有機農法によって作り上げてゆくというのがスローフードの意義であり、かつまた主張している事らしいのだが、勝彦さんはそんなことなどまるで知らず、ただ実践し続けてきた。そういう素朴な姿勢が、賞の対象者とて挙げられたらしい。
さらには若者たちをひきとって精神の復活を手助けしたという事から「審査員特別賞」まで与えられた。どちらも日本人では初めての快挙だった。しかし勝彦さんにとって、そうした受賞などはもはや過去の出来事のひとつでしかない。やぐらしかこととてはおもわないが、自分のおもうとおりに農作業を続けるだけの事だ。
毎年、夏になれば、かれを呼ぶものがある。風邪に騒ぐ六角川の葦たちである。弥生の時代と同じように自分たちを堆肥にして役立たせてくれ・・・と招くのである。
勝彦さんは鎌を手にし、こころを甦らせようとしている仲間たちと共に出かけてゆく。かれはこのたび取材したおり、百姓は笑い顔を見せることが得意じゃなかけん・・と、カメラの前でははにかんだが、おそらく入道雲の下で葦の原をまのあたりにしたときは、あふれるような笑顔を見せているにちがいない。